メディアを疑うという目

 学生のときから感じる事は、メディア(特に、新聞・テレビ)における情報に関しては、ある一定の疑いを持つ事がとても大切だということだ。ニュースには一定の質が求められているが、現在、その質が高いものとは到底思う事が出来ない。その理由のひとつは、最近の夕刻のニュースの姿勢である。確かに、コメンテータと称する人々が各ニュースに対してコメントを寄せるの視聴者にとって分かりやすいのかもしれない。

 しかし、いま見ている限り彼らの述べているコメントは一個人の考えや思うことであり、ニュースに対する解説的なものではない。夕方のニュースでさえもひとつのバラエティに近いものになってきてしまった。番組のアナウンサーも視聴者に向けたニュース提供ではなくて、これではコメンテーターに向けた情報提供になっている。時折、そのコメンテーターの恣意的なコメントが世論をミスリードさせることにもなりかねないと感じる節が見受けられる。そこに対して、無責任なコメントを寄せるコメンテーターはそもそも必要がないのだが。

 個々のニュースに対する感想を持つのは、視聴者の自由であり、それをコメンテーターがあたかも視聴者の代表であるかのように主張されるようなニュース番組は質が悪いと感じざるを得ない。そうなると、メディアとしてのあり方そのものがやはり疑いのまなざしで見られても仕方がない。常々、メディアに対しては何らかの疑いの目を持つ必要があるのは、いまのニュースを見ても、必要だと改めて感じてしまう。