自然との関係

 先日、ひさびさに神事に参列して考えたことをここに綴ってみたいと思う。というのは、やはり日本人は農耕と離れては生活できないんだなということを感じたから。普段何気なく野菜やお米を食べている人にとって、作っている様子やそこにおける土着的な背景を考える人はとても少ない。しかし、作り手達にとって自然を相手にしている以上、そういう風土的な習慣はある程度踏襲されてきている訳であり、そこには自然の摂理と神々との対話によって作られてきたコミュニケーションによる密接な結びつきが現代でも脈々と受け継がれている。

 例えば、祈年祭(としごいのまつり)はその年の五穀豊穣を祈願する神事であり、この神事を持って地元では農作業が本格的に開始されるようになっている。実際には農作業の準備が始まるのがこの時期。また古き風習を調べてみると、この時期には祈年祭とは別に雨乞いの神事がそれぞれの集落で行われていたことが記録として残っている。現在では、京都では貴船神社で行われている訳だが、その昔は各々の集落が持つ溜め池で雨乞いの神事が執り行なわれてきたのであり、その水に関することは重要な要素であり、そこに賭ける祈りや思いは昔から深いものがある。そして、実った作物は願い届いたお礼として、また神事を行い、神前に供される。そして、我々の元へと提供される。そう考えると、見えない所で行われる脈々と受け継がれた風習の結晶が農作物だと言っても良いのかもしれないと思う。

 この普段の何気ない所からつながる自然との連関性は、現代に忘れ去られたひとつの日本人の特有の感性の根本ではないかと思う。固い言葉かもしれないが、批判している訳ではない。最近野菜をおいしく食べることから広がるイマジネーションの中に農耕風習の景色が浮かんでくるようになったので、このようなことを書いてみたまでのことである。ちょっと神事に参列して、より考えが深まってきたので。これからも美味しい農作物を食すことができますように。