水無瀬離宮に思いを馳せる


 先日、全国紙にも出ていた「水無瀬離宮」と思われる部分が遺跡から発見されたとの記事を見て、しばらく他府県の文化に触れる機会が少なかったので、実際に見てみたいなと思い、また現地説明会も行われるとのこともあり、島本町にある広瀬遺跡に行ってきました。京都からはJRで島本駅、阪急では水無瀬で下車した大山崎とのちょうど中間くらいの所です。



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 上記の地図(緑矢印のところ)のように島本町立小学校の裏の田んぼから出土しました。分譲になる場所だったようで。内容としては、今回は後鳥羽上皇が避暑の為に造営したといわれる離宮跡と思われるという内容でした。同町では、これまでに遺跡は見つかっているのですが、これまでの遺跡では瓦が発掘されることがなかったのですが、今回の発掘場所ではその瓦が発掘されたことから、この場所辺りに離宮が造営されていたのではないかということでした。

 まずは、西側のトレンチでは素堀りの井戸が発見されており、また瓦が数多く発見され、柱穴も見つかっていることから注目したとのことでした。これらの瓦には紋様や作りから鎌倉前期のものと推定されています。そして、東側のトレンチには東西に渡る敷石の遺構と建物跡と思われる遺構が見つかっていおり、この建物群からは釘隠しと思われる数点の腐食した金属器も瓦とともに出土しています。


 こちらがその見学会の様子。新聞の影響もあり、多くの見学者が集まりました。写真は東側のトレンチの様子。この離宮藤原定家小倉百人一首を完成させたともいわれていることから、その様子をここで思いを巡らせる見学者も多かったようです。もちろん、私もそのひとり。


 今回出土した遺構はこのような建物が建てられていたのではないかと推測されています。


 折角、水無瀬の地を訪れたので、以前から参詣をさせていただきたかった『水無瀬神宮』へと参りました。こちらの神社は後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇を祀る官弊大社。仁治元年(1240年)に離宮跡に御影堂が造営されて、その折から祀られました。その後、後土御門天皇により隠岐より上皇の御神霊を勧請し、神号を奉じられ、明治以降これまでの仏式から神道に改められ、水無瀬宮に改称されました。こちらのちょうど生まれたばかりのお子さんのお宮参りが行われていまして、そちらを拝殿外から見守り、祭典が終わってから、拝礼をさせていただいて、少し社務所でお話を伺い、水無瀬神宮をあとにしました。


 やっぱりこちらの地区にも愛宕さんのお灯明が。地元を守る火伏の愛宕さんにも拝礼をして、京都へと戻って参りました。で、午後からはお仕事の為、事務処理に追われておりましたwでもひさびさに歴史に思いを馳せることの出来る時間が作れたのは、自身にとっても非常によき体験になりました。

写真に関しては©Nobuyuki.ですので。