参拝の日帰り旅行

 昨日、2009年8月26日に今年もいつもお世話になっている水火天満宮宮司さんと菅原院天満宮宮司さんと両神社崇敬会の皆さんとともに公式参拝の日帰り旅行へ行ってきました。今年は、越前國一ノ宮である旧官弊大社「氣比神宮」及び旧県社であり紙祖神を祀る「大滝神社/岡太神社」へ参拝を致しました。

氣比神宮越前國一ノ宮・旧官弊大社

 御祭神:伊奢沙別命仲哀天皇神功皇后日本武尊応神天皇・玉妃命・武内宿禰命を祀る。


 伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。文武天皇の大宝二年(七〇二)勅して当宮を修営し、仲哀天皇神功皇后を合祀となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治二十八年三月二十六日に神宮号宣下の御沙汰に依って氣比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡氣比神宮七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治二十八年に宮幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領持統天皇の御代より贈封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護二年(七六六)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。延元元年(一三三六)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は滅ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(一五七〇)四月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長十九年(一六一四)福井藩結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治三十九年国宝に指定されたが戦災(昭和二十年七月十二日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和二十五年御本殿の再建につづき同三十七年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巌修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。

-(氣比神宮略記より) -

 朝から非常によい天気の中、観光バスで京都を出発。名神を経由して、北陸自動車道へ。そして敦賀ICで降りて、すぐにある『氣比神宮』へ向かいます。この日の氣比神宮は、祭儀の準備で御鳳輦が拝殿に座してあり、法被などの準備されているお忙しい中、正式参拝の儀を執り行っていただきました。修祓、祝詞奏上の後、大弊を頒ちいただき、両宮司による玉串奉奠をもって、儀を滞りなく御斎行していただきました。この日は氣比神宮宮司さんはご不在のため、禰宜さんよりご丁寧にご挨拶並びにご説明を賜り、しばし境内を拝見して、再びバスで移動。
 再度北陸自動車道を北上し、武生ICで降りて昼食をとりました。そして東へと進み、大滝町に鎮座する「大滝神社/岡太神社」へと参りました。

「大滝神社/岡太神社」旧県社/式内社紙祖神

 御祭神:国常立尊伊弉諾尊/川上御前(岡太大神)


 当神社は神体山である権現山(三二三メートル)の山頂付近に建つ奥の院(上宮)と里宮 (下宮)とから成り立ち、奥の院には大滝神社と岡太神社の本殿が並び建っている。この山麓 にある社はその両社の里宮である。大滝神社の創建は、社伝によれば、推古天皇の御代(五九二− 六三八)大伴連大滝の勧請に始まると伝えられている。
 ついで、奈良朝に至って元生天皇の養老三年(七一九)、越の大徳と称せられた泰澄大師が この地に来り、大徳山を開き、水分神であり紙祖神である川上御前を守護神として祀り、国常 立尊・伊弉諾尊の二柱を主祭神とし、十一面観音をその本地とする神佛習合の社を建て、 大滝兒大権現、または小白山大明神と称し、その別当寺として大滝寺を建立し、 社僧を置き神事を司らしめらことを伝えている。
 岡太神社は、この村里に紙漉きの業を伝えたとされる川上御前を祀り「延喜式神名帳」(九二六) にも記載されている古社で、往古よりこの神域に摂社として祀られた。この紙祖神としての川上御前に対 する里人の信仰は篤く、神の教えに従い古くから大滝神郷一円を中心に、優れた紙を漉いてきた。
 中世には大滝寺は平泉寺の末寺となり、四十八坊の堂塔伽藍が山頂、山麓に並び、社僧 も六、七百人を擁して隆盛を極め、神領七十余町、日野川以東の村落四十八ヶ村を氏子とする にいたった。南北朝時代には足利の軍勢に抗し、その兵火により一時衰退するが、室町時代の中葉、 国主朝倉氏の帰依篤く、再び社運は興隆した。天正三年(一五七五)、織田信長一向一揆攻略の際 再度兵火に会い、一山ことごとく灰燼に帰したが、その後に領主となった丹羽長秀の保護により漸く復興することになる。
 江戸時代には、初代藩主結城秀康を初め代々藩主の崇敬篤く、兵火のため焼失した社殿も再建された。 その後、老朽化により天保十四年(一八四三)には江戸後期の社殿建築美の粋を尽くした現在の里宮 の本殿、拝殿が再建された。明治維新後、神佛分離令によって「大滝児大権現」は大滝神社と 改称され、昭和三年には県社に列せられ今日に至っている。
 なお、大正十二年七月には、大蔵省印刷局抄紙部に摂社岡太神社の御分霊が奉祀され、 紙祖神川上御前は名実ともに全国紙業界の総鎮守として多くの人々の信仰を集めている。
 昭和五十九年(一九八四)五月二十一日、現里宮の本殿・拝殿がその歴史・記録の確かさと 建築の美しさを認められ、国の重要文化財として指定を受けた。
 さらに、平成四年(一九九二)五月、神門・回廊・奉楽殿が造営され、ますます神威 が高まり、調和された輪奐を遺存するものとなった。

-(大滝神社/岡太神社由緒より) -

 大滝神社周辺の大滝町は和紙で栄えた町であり、紙漉きの技が今でも残る地域でもあります。県道262号、200号、199号を経て、大滝神社へと向かいました。我々が参拝したのは下宮である里宮であり、奥の院とである上宮は時間の都合で参拝することができませんでした。しかしながら、この御社の境内は広く、境内の階段を上ると拝殿と本殿が一体となった五層の複雑な屋根からなる社殿が建立されていました。屋根には三葉葵の御紋が神紋が拝されているのですが、これは崇敬厚かった江戸時代の初代藩主である結城秀康の影響が大きかったのではないかと思います。荘厳な雰囲気と独特の空気感が漂う神聖な境内は、俗世界と一線を画した世界でありました。参拝者一同で拝礼を行い、大滝神社を出発しました。

 国道8号線を南下し、途中越恵比寿神社のとこの敦賀の海産物のお土産を買い求めて、そして、国道161号を経由して、少し寄り道してマキノ高原へ。メタセコイヤの並木道を通り、再び湖北バイパスの国道161号へ合流し、湖西道路で大津京で一部の参加者の方とお別れし、国道1号経由で京都へと帰って参りました。