「楽しむこと」を考えてみる。

 昨年末を持って、森博嗣さんのブログの更新が終了した。毎回楽しみに拝読させていただいていたブログの一つであった。先月の記事でとても考えさせられる記事があった。それが『常に楽しさを探して』という記事である。その中で私が特に注目したのは次の部分である。

 楽しみを求めて生きていくのが人生だと思うけれど、その楽しみにもいろいろあるし、特に、時間をかけないと楽しめないものと、短い時間でぱっと楽しめるものに大別できる。だいたい、前者の方が楽しみは大きい。手っ取り早くその日で楽しめるものばかりしていると、(普通の感覚の人ならば)ときどき虚しくなる。もっと長いスパンの大きな楽しみを求めたくなるだろう。でも、途中で厭きてしまったり、最後まで行き着かないことが予想できる。ここが難しいところだ。
-『http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2008/12/post_2308.php』より抜粋 -

 私自身もなかなか長いスパンでの大きな楽しみは、最後まで続くことは少ない。もちろん長いスパンでの楽しいことを続けていくことは頭の中で組み立てていくだけで、気持ちが盛り上がる。しかし、真面目に冷静に見つめてしまう自分がどこかで自制をかけてしまっているように感じるのだ。そういう見方が癖になっているのもあるのだろう。

 私自身、外では普段、よく会話をすることが多い。行動からも幅広い分野についても常に情報のアンテナを張ろうという気持ちが前に出ていることが自分でもよく分かるのだが、その一方で冷静に見ている自分自身もいるのである。その自分が冷静に観察をしている。自分や周辺の様子などもである。本人としては、楽しんでいるのだが、その一方で冷静に分析している自分が自制をかけているのも事実である。

 「楽しむ」ためのキーワードが記事の最後のほうに綴られている。

 毎日、今日の楽しみを探すし、この1週間の楽しみを考える。今月の楽しみ、今年の楽しみを常に持とうと努力している。仕事は、お金を稼ぐためにする行為ではあるけれど、お金がもらえるという楽しみだけでできるものではない。やはり、なんらかの(少しでも良いから)楽しみが見つかると楽になると思う。「探す」と書いたけれど、どちらかというと「作る」の方が近いだろうか。
-『http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2008/12/post_2308.php』より抜粋 -

 個人的には様々なことが長いスパンでの楽しみが多くあるのだが、それが混線するからちょっと自分には悲しいかなその管理が下手なんだろうなと思ってしまうことが多い。今年は長いスパンと中くらいのスパンと短いスパンの楽しみを計画して活動していこうかと考えている。今日もそんなことで色々と両親と話していたところだ。楽しむことを何か考えようと。それが、生きることの楽しみを更に深めてくれるのだから。