"桂離宮1"

タウトは、桂離宮アクロポリスと比較して、次のように賞賛をしている。

*長くなりそうなので、連載に切り替えます。

アクロポリスでは石造建築の、また桂離宮では木材と紙及び竹を用いた建築の、それぞれ見事に完成せられた技術にほかならない。従って両者はいずれも円熟の極致に達しながら、しかも同時にまた小児のごとき純粋無邪の特性を具えている。

私見なのだが、この木造と紙・竹という部分が和の技術のポイントではないかと感じる。シンプルな素材であるからこそ、そこに純粋な特性を組み込んでいくという感じだろうか。

日本には限りなく美しい門が無数にあり、そこに住む人の高雅なことを、華麗豊富な装飾によってではなく、用材の入念な選択とその見事な加工とから生じた純正な釣り合いによって暗示しているのである。

タウトは桂離宮を最初、中ではなく、まず入り口である門から注目している。これは私自身も同じ気持ちである。この最初、入るところから計算された美意識が始まっているのである。門は境界線である。だからこそ、一線を画し、その場所から計算される必要性があるように感じるのだ。バランスのまとめ役がもしかしたら門であるといえるかもしれない。

単に実用的でありさえすればよいという素朴な立場から見ても、機能主義はここで間然するところなく実現されているのである。現代の建築家は、桂離宮がこのうえもなく現代的であることに驚異をさえ感ずるであろう。実にこの建築物は、種々な要求を極めて簡明直截に充たしているのである。

まず、注目すべきは機能主義がこの桂離宮に実現されている点である。これは、現代でも機能主義の作品*1でも実現する部分で苦心されている部分であるが、それが、造営当時に組み込まれ、実現されていることに驚きを持つことは理解が出来る。そこから、後半の"種々の要求を簡明直裁に充たしている"という表現で、この実現されているというところに現代の建築に携わるものは、視線を向けよと問いかけているといえる(実際にこの後の記述は、機能の実現における点に言及している。)。

*1:あえて、そう表現しておこう。