どうか京都が壊れてしまいませぬように…

ちょっと衝撃的なタイトルを書いたが、これは本心だ。近年の京都は多くの雑誌などに取り上げられているが、それによって大きく、京都の風情や心が壊れてきているように感じてしまう。京都というのは、古くから暗黙のルールによって、守られてきた一定の"しきたり"というものがある。これは、決して他所の人が京都に入ることを阻害したりする為に守られてきたのではない。生活や人間関係から長年培われてきたある一定の常識的なルールである。作法ともいうべきであろうか。しかしながら、それを大きく揺るがしかねない事がここ数年目にする事が多い。


具体的事例を挙げると角が立つので、つづる事は避けるが、それによって私の生活にも大きな影響を及ぼす事も多くなってきた。これは、今まで保ってきたバランスを大きく揺るがし、京都の持つ本質的な心を随分と揺らいで来ているように感じる。京都が発展する事は誠に良い事である。しかし、壊れる事は好ましい事ではない。よく経済的な発展には、必然的に破壊が生じるという人もいるが、それは、否定できる。破壊ではなく、成長する事が大切なのだ。だが、京都では一部、(心の)破壊が行われてきているように感じる。小学館「週刊・日本の歳時記」のCMにて、樋口可南子が「どうか日本が変わってしまいませぬように」という言葉に、私はグッとくるのだが、私に関してはこう思いたい。『どうか、京都が壊れてしまいませぬように』と。